SAYi JOURNAL
禁止されたのに、100年後に豪華な春画が誕生? 江戸の性文化が面白すぎる
「江戸時代って、今より性におおらかだったんでしょ?」。春画の話をすると、そんなイメージが浮かびませんか。ところが、調べてみると不思議なことがわかりました。江戸幕府は1722年に好色本の絶版を命じているんです。それなのに、およそ110年後には、浮世絵の人気絵師がとんでもなく豪華な春画を作っていました。禁止したのに、なぜ消えなかったのか。ここが面白いんです。
こんにちは、NPO法人SAYi代表理事のキヨです☺
最終更新:2026年10月11日

「禁止されたら終わり」じゃなかった
1722年、徳川吉宗の時代。江戸で出された町触には、好色本の類は風俗によくないから絶版にせよ、という趣旨の命令がありました。立命館大学の研究展示によると、同様の規制は京都や大坂にも広がり、艶本の出版はいったん減ります。
でも、そこで歴史が終わらない。出版は次第に復活します。ただし、変わったのは売り方でした。
それまで本に載っていた絵師や版元の名前、刊行年が消え、正規の検閲を経ない流通へ移っていったそうです。今の感覚でいえば、「出すな」と言われたジャンルが、署名を隠して生き延びたようなものです。
しかも面白いのは、完全に正体不明になったわけでもないこと。「隠号」という、知っている人には作者を連想させる名前が使われました。堂々と実名では出せない。でも、わかる人にはわかる。なんとも江戸らしい、絶妙な距離感です。
禁止から約110年後、豪華すぎる作品が登場
さらに驚くのが、歌川国貞の春画です。
いま新宿・歌舞伎町で開催中の「歌川国貞・歌川国芳―新宿歌舞伎町春画展WA」では、国貞の春画三部作、通称「三源氏」がまとまって紹介されています。最初の『艶紫娯拾余帖』は1835年ごろ。1722年の絶版命令から約113年後です。
そして、このシリーズがすごいのは絵の内容だけじゃありません。空摺という紙に凹凸をつける技術や、金・銀を用いた装飾、細かな毛彫りなど、当時の木版画の技が惜しげもなく投入されているんです。
つまり「こっそり作られたから、粗末なものになった」わけではない。むしろ非常に凝った美術作品が生まれていた。禁じられていたことと、技術や需要が衰えなかったことは、同時に成り立つんですね。
「春画があった=自由な社会」でもない
ここで、ひとつ誤解しやすいことがあります。春画が人気だったからといって、当時の人たちが誰でも自由に性を語れたわけではありません。
江戸時代には身分による違いがあり、男女で許されることも同じではありませんでした。遊廓の存在を「性に開放的だった証拠」と見るだけでは、そこで働く人たちの立場や制約が抜け落ちます。
そもそも春画は、ひとつの用途で作られたものでもありません。刺激を楽しむ絵であり、笑いや物語のある読み物であり、贈り物として扱われた例もあります。女性が受け手になることもありました。
「昔の日本人はみんな春画で性教育を受けていた」という話も耳にします。でも、作品によって楽しみ方も読者も違ったはずです。ひとつの娯楽が流行ったという事実から、国民全員の性意識まではわからないんですね。
明治になると、何が変わったのか
「日本人が性を恥ずかしがるようになったのは、明治の西洋化から」という説明もよく見かけます。
ただ、これも半分だけでは足りません。さっきの1722年の禁令を見れば、江戸時代にも規制はありました。明治になって突然、性がタブーになったわけではないんです。
一方、近代日本の性文化を研究するサビーネ・フリューシュトゥックは、19世紀後半の国家建設において、春画や裸体を伴う習俗が「文明国」にふさわしくないものとして位置づけられていったと説明しています。
同じ絵なのに、社会が何を「上品」とし、何を「恥ずかしい」とするかが変わった。春画そのものだけでなく、それを見る人の目線も歴史の中で作られてきたわけです。
そして2026年、歌舞伎町で春画を見る
この話の続きが、いま新宿で見られるのも面白いところです。2026年10月3日から11月29日まで、歌舞伎町の能舞台とホストクラブを会場に、国貞と国芳の春画が展示されています。約100点を紹介する展覧会で、18歳未満は入場できません。
会場が「能舞台」と「ホストクラブ」という組み合わせなのも、なかなか強烈ですよね。春画を芸術と見る人も、刺激的な絵と見る人もいる。その両方の視線が交わりそうな場所です。
もし見に行ったら、絵の内容だけでなく、ちょっと想像してみてほしいことがあります。「この絵が作られた頃、絵師はなぜ名前を隠したんだろう?」「誰が、どんな気持ちで買ったんだろう?」
春画って、昔の人が何をしたかをのぞき見るだけのものじゃなかったんですね。むしろ「見てはいけない」と言われても作り続け、見続けた人たちの歴史が、紙の向こうに残っていました。
出典
資料の確認日:2026年10月11日